B型だもの。

分散化していく世界の片隅で。

酷暑の中、息をとめるように外出の用事を済ませ、クーラーの効いた部屋に戻り、シャワーを浴びる。できれば涼しくなるまで部屋から出たくない。ひたすら本だけ読んで秋を迎えたい。

「一流たちの修行時代」は、少し前に読んだのを読み返した。ファーストリテイリング柳井正、CoCo壱番屋創業者の宗次徳二、旅館予約サイト一休創業者の森正文、札幌の名店・すし善創業者の嶋宮勤らの若かりし「修行時代」にフォーカスを当てたインタビュー集。

ことに日本画家の千住博氏のインタビューが強烈で、この箇所をなんども読み返してしまう。
私は自分自身に問いかけます。画家として世に出ることと世に出ていないことの違いは何だろうか、と。それは才能の違いではありません。思うに、世に出るとは世に出るまで絵を描き続けた人であり、世に出なかった人とは世に出る前に絵を描くことをやめてしまった人なんです。
世に出るとは、打たれても打たれても舞台に立ち続けること。厳しい批評にさらされても、描くことを放棄せず、じっと耐えて、また絵に向かい合う。人はあまりに打たれ続けると、打たれることがつらくなってしまい褒めてくれる人を探すようになります。そうして、自分で小さな舞台を作り、自分を理解してくれる少数の人の前だけで作品を発表するようになる。でも、それは本当の芸術行為ではない。
人が感動するのは芸術家の姿です。芸術家が不屈の精神で作品を作り、それを人に対して訴えかけていく姿に感動する。色がきれい、形がきれいといったそんな甘いもんじゃない。打たれても打たれても相手を説得する不屈の精神に、人は感動し、勇気づけられる。
修行時代とは、土に養分をやるようなものかもしれない。あるいは自分の中の泉を貯め続ける所業。五感を使い、ひたすら見聞して歩き、失敗と向き合い、挑戦し続ける。華やかな舞台に立つ人は、誰もが尋常でない修行時代を経験している。

それは若い頃だけのものではなく、人は一生に何度か修行時代を迎えるのかもしれない。何度か踊り場に立つ中で、謙虚に学び続ける人が生涯現役で人を魅了し続けるのかと思う。



 
このエントリーをはてなブックマークに追加