B型だもの。

分散化していく世界の片隅で。

札幌から旭川を経由して、網走、知床、羅臼、中標津、釧路を巡った道東旅行の中で、一番印象的だったのは、博物館網走監獄だった。

網走刑務所といえば、海辺の断崖に建てられた牢獄、無期懲役囚や凶悪犯ばかりの刑務所を想像していたが、そうではなかった。

オホーツク海に面した網走市街地。そこから少し内陸部に入った、網走湖畔近くに網走刑務所はある。天都山のオホーツク流氷館から眺めると、近所には宿舎や畑があり、のどかな風景に見える。

無期懲役囚ばかりが集められたのは、明治時代のことだった。現在では、刑期10年未満の受刑者が中心で、累犯率が高い。「ヤク中とか窃盗犯が多いですね」とのこと。

刑務所とは別の場所に、博物館網走監獄はある。かつての木造の獄舎や仮宿舎が移築され、見学できる。現代の房舎の再現や映像コーナー、「監獄食堂」や土産物屋が並び、さながらテーマパーク。

最も印象に残ったのは、重要文化財に指定されている庁舎。展示コーナーには、北海道開拓の歴史。なぜか。囚人こそが北海道開拓のもうひとりの主役だったから。

ロシアが南下政策を進め、江戸時代には蝦夷地とされていた北海道の開拓が急務となる。開拓使や屯田兵、戊辰戦争で朝敵となった藩の士族らが入植していたが、広大な大地の開拓は思うようには進まず、政府は氏族の反乱で全国に急増していた囚人を開拓の労務に就かせることを決定する。
「モトヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、ソノ苦役ニタヘズ斃死スルモ、工夫ガ妻子ヲノコシテ骨ヲ山野ニウヅムルノ惨情トコトナリ、マタ今日ノゴトク重罪犯人多クシテイタヅラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテコレラ必要ノ工事ニ服セシメ、モシコレニタヘズ斃レ死シテ、ソノ人員ヲ減少スルハ監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニオイテ、万止ムヲ得ザル攻略ナリ。」
金子堅太郎による復命書ではこう書かれている。囚人などはもともと悪人なのだから、苦役に耐えられず死んでしまっても、一般人の作業員とはわけが違うし、むしろ監獄費の削減になるという趣旨。

札幌から旭川、北見、網走までの道路が開通し、広域に入植が可能になったのも、幌内の炭鉱が日露戦争に寄与したのも、低工賃の囚人あってこそだった。

吉村昭「赤い人」には、北海道に集治監(監獄)がつくられ、囚人が開拓に使われ、死んでいく様子が描かれている。
監内にいた不具者は二百六名で、手、足の欠けた者たちが五十数十人の盲目者とともに整然とならんで、綿の塵をのぞく作業をつづけていた。そして、日没近くなって作業終了の鐘が鳴ると、手だけを失った者が誘導者になり、盲人たちがたがいに前を歩く者の帯をつかんで作業場を出、その後から足の欠けた者が這いながら房に帰っていったという。
集治監に送られた囚人の多くは、萩の乱、神風連の乱、佐賀の乱、西南戦争などで捕えられた反逆士族たちであった。彼らが酷寒の中、自分たちの入る獄舎を建て、新政府の重鎮が並ぶ開設式で、整列して獄舎に入っていく様子は、権力闘争の苛烈さを突きつける。

その後の網走刑務所の様子は、伝説の脱獄囚を題材にした、やはり吉村昭の「破獄」に詳しい。

ウェーバーが暴力装置とした政府が、反逆分子や社会不適合者たちを監獄に送り、その労務は、北海道に道を拓き石炭を産出し、日本の近代化を支えた影の主役となった。

やがて第二次世界大戦の敗戦によって、米軍という新たな暴力装置の支配が訪れ、刑務所が権力に翻弄されていく。2冊の本から、その凄惨さと痛ましさが浮かび上がる。



破獄 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社
1986-12-23

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