B型だもの。

分散化していく世界の片隅で。

先日、IMF/世銀総会の一環として六本木で行われた世界経済フォーラム(ダボス会議)のセッションを聴講する機会があった。強く感じたのは、リーダーはその視座で計られるということ。

スピーカーは、武田薬品の長谷川社長、元駐日英国大使のSir. David Wright、Victor Chu、Ian Bremmer、Nik Gowing。オーディエンス席から、元外相、文化庁長官はじめダボスメンバーが、次々と意見を述べる。まさに丁々発止。面白い意見には賞賛や感謝のコメントがつくが、つまらない話には、発言者のステータスにかかわらず(ほぼ全員が一国のルールメーカーだけど。。)、会場のメンバーがあからさまに退屈な表情を浮かべ、時に失笑さえされる。拙い英語でも、話に熱が入り、面白くなると、皆が姿勢を正して聞き始める。

この場で評価されるのは、話が面白いか、視座が大きいか、ユニークか、面白いか、意志があるかどうかだ。すなわち「あなたの目には何が見えているのか。それは巨大か。美しいか。オリジナルか。時宜を得ているか。私の役に立つのか」。

個人のバックグラウンドは、発言の説得力にはなるけれど、それ自体が賞賛されたり、有利になるものではない。(外交問題を議論している時に、元外相が挙手しても、発言の機会さえ得られない)

最も感動したのは、ある海外スピーカーが日中外交に言及した際、オーディエンス席から緒方貞子氏が意見を述べられたことだ。毅然と、大変エレガントに。それはもう、エレガントとしか言いようがなく(英語も振る舞いも、例えようがなく上品で、けれども強い意志を感じる)、場の空気が一変した。

人間の価値とは何か。発言と貢献で計られるというのは、アングロサクソン的なところはあるけれど、どの文化においても、やはり意志、視座、面白さ、さらに言うならその人の生命力のようなもので、人は計られるのではないかと思う。つまり問われるのは、あなたは何者か、ということだ。それに答えるのは、私が何を見ているかということしかない。

私は何者か。ある意味傲岸なほど、我は我であるという強烈な自負、覚悟。一方で、徹底的に貢献するということ。発言も問題意識も、世界への貢献へと向かう。我と貢献はワンセットなのではないかと思う。

二年前、中国でのダボス会議に参加させてもらった時のことを思い出した。朝、ホテルから会場に向かう専用バスの中で、名刺交換が始まる。手短に自分のバックグラウンドを紹介した後は、世界情勢の話が始まる。オバマの外交戦略についてどう考える? 彼のチーム組成についてあなたのViewは? それは数分間のプレゼンで、全方位から評価される。こいつは情報を持っているか。解釈しているか。面白いか。付き合う価値があるか。

人間が生きるということが、本来は生存競争であるならば、そのように強烈に個を打ち出し、かつ共同体の存続に貢献できる人間が生き残るのだろうし、本来、高貴とは、そのような人(生存ヒエラルキーの最上位にいる人)であったと思う。

英語力を上げなければと、強く強く思う。それは無論、語学力のみならず、教養、プレゼンス、世界観、ユーモア、そんなものをひっくるめて。学ぶべきことのあまりに大きさに愕然としつつ、目の前の世界の広大さに欲望する。
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